みなさんこんにちは、あるみです。
引き続き仙台旅の記録を紹介していきます。
今回は旅の2日目に仙台市内にある
震災遺構荒浜小学校を訪ねたときの記録を
紹介していきたいと思います。
震災当時、私は小学生でした。
震災直後に毎日のように報道された津波や瓦礫の山の映像に、
被災地から離れた地域に住んでいたにも関わらず
大きなショックを受けたのを覚えています。
あれから12年が経ちます。
日本に住んでいる以上、地震をはじめとした自然災害に
無縁ではいられません。
震災の被害を実際に目で確かめるとともに、
記憶と教訓を改めて肝に銘じたい。
これを仙台旅のテーマの一つとして掲げて
旅程を組んだのでした。
この記事で震災について改めて思い出すきっかけに
なりましたら幸いです。
それではどうぞ!
いざ荒浜小学校へ
道中と周辺探索
荒浜小学校へのバスは本数が限られていることもあり、
絶起すれば旅程の大番狂せという大ピンチに瀕することに笑。
そのプレッシャーからか1日目の疲れを物ともせず、
アラーム通りの起床をきめたのでした!
仙台駅から荒井駅まで地下鉄で15分、
荒井駅から小学校前までのバスで15分。
乗り継ぎも合わせて40分ほどかかりました。
バスから外を眺めていると、あちこちの建物に
「津波到達の高さ」「避難場所」という掲示があったり、
避難方角を示す看板がありました。
次に震災・津波が来た時のための備えが
街の至る所に表れていました。
小学校周辺に到着してから、しばらく周辺を散策していると
「避難の丘」という小高い丘を発見しました。
小学校開館まで時間があったので頂上まで登ってみました。
頂上からは盛り土の上を走る道路を確認しました。
この「かさあげ道路」は海岸堤防にプラスして
堤防の役割を担う設計になっているそうです。
荒浜小学校へ
荒浜小学校は東日本大震災の時は地域住民の避難所となりました。
現在は閉校しており、震災の記憶を語り継ぐ資料館となっています。
被害を受けた教室が当時のまま残っています。
小学校の2階まで津波が押し寄せ、
その爪痕が教室に残っていました。
津波の侵食によって壁と天井が剥がれ、黄ばんでいます。
津波で流され挟まったままの空き缶。
津波がいかに高く、勢いのあったものかを物語っています。
津波の瓦礫が押し寄せた当時の写真です。
津波の恐ろしさを改めて感じました。
津波の押し寄せた時刻で止まったままの時計。
体育館に設置された時計でした。
震災直後は体育館に避難する計画もあったそうですが、
津波が来ることを想定して屋上への避難に切り替えたそうです。
結果、体育館は津波で浸水。
一つの判断で多くの人の生死が決まってしまう場面があるのだ、
と背筋が凍りました。
小学校のある荒浜地区は
住民のつながりが強い地域だったそうですが、
震災でその多くが「災害危険区域」となり、
住民は移転を余儀なくされました。
「災害危険区域」と指定された地域は、農地等の
住居以外で土地利用がなされています。
荒浜小学校は現在は閉校となっていますが、
年に一度かつての住民で集まるイベントが開催されているそうです。
最後に屋上から周辺を眺めました。
12年前は瓦礫の山で荒れていた、この地域と海岸線。
現在は震災の教訓を活かして綺麗に整備されつつも、
あちこちに震災の傷跡が残っていました。
小学校の中の資料館を見た後に改めて周りを眺め、
被災地の方々どれだけの苦難を経験したのか、
そしてどれだけの強さを以て復興し立ち直ってきたのか、
を感じて目頭が熱くなりました。
震災の記憶を風化させず、
防災・減災の大切さ、支え合いの心の大切さを心に刻んで
日々を過ごしていこう思いました。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
それでは次の記事でお会いしましょう〜。
おまけ・
久々の真面目記事、文章をまとめるのが大変だった……
バイト終わりの疲労した脳を捻り回して書きました汗。
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